2007年09月07日

『刀狩り』藤木久志

 さて今回はガラリと変って、
  藤木久志著『刀狩り』岩波新書
です。
 誰もが知っている歴史用語でありながら、それまで全く研究がなされていなかった「刀狩り」について、その意義を一新させた画期的な著作です。歴史学における基本的文献の一つと言って良く、既に多くの方が論評しておりますので、いまさら内容を紹介することも無いと思いますが、一応簡単に。
 従来、「刀狩り」は農民の武装解除令と捉えられてきましたが、実は武器の“所持”に関しては肝要で、ただ“帯刀する武士”身分と“それ以外”の身分を区別した身分統制令であったのです。そして、日本では、秀吉の「刀狩り令」、明治の「廃刀令」、戦後のGHQによる民衆の武装解除政策と三段階の「刀狩り」があり、この三段階目に至って初めて日本の民衆の武装解除はなされたとしています(それでも現在230万本の刀剣が全国にあるそうです)。
 ところで、そもそもなぜ私が突然このような本を読んだかというと、以前、海上知明著『信玄の戦争』について書いた時、兵農分離について後日調べて見たいと書きました。その一環として本書を読んだ訳です。
 つまり、「刀狩り令」が、身分統制令または武装解除令のいずれであったとしても、農民と武士を区別するものであったことは間違いありません。
 とすれば、「刀狩り令」の厳格な運用は、兵農分離の要件の一つといって良い訳です。もし、この「刀狩り令」が織田政権の領土で広範かつ厳格な運用が認められるのであれば、信長の軍隊は兵農分離していた可能性をみることができます。
 ところが著者の調査によれば、織田政権では、越前での「刀狩り」の微証があるものの、他の地域では確認できておりません。他地域で全く見られないということは、越前の例は特殊事例(おそらく反乱防止の為、やむを得ずとった臨時の処置)ということができ、織田政権の恒常的な施策としては「刀狩り」は行なわれなかったと言う事です。
 結局、通説通り「刀狩り令」の徹底は秀吉によってなされたのであり、兵農分離は秀吉からということを裏付ける根拠の一つになるでしょう。
 ところで、「刀狩り」だけでなく、武士の城下町への集住(武士と耕地の切り離し)や、「検地」による耕作者(農民)と武士の明確な区別など、兵農分離の要件は他にもありますので、これらの点についてはまた後日調べて見たいと思います。
 
posted by 天王寺屋 at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 織豊政権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月31日

『秀吉神話をくつがえす』藤田達生

 今回紹介する本は、
   藤田達生『秀吉神話をくつがえす』講談社現代新書
です。
 本書の題名から、津田三郎氏の『秀吉英雄伝説の謎』(中公文庫)のような内容かと思ったのですが、そうではありませんでした。ちなみに『秀吉英雄伝説の謎』ではその死後実際に「豊国大明神」にまで登り詰める秀吉の神格化について叙述しています。
 一方、本書ではまず第一章で秀吉の前半生(本能寺の変まで)を述べています。
 この章での著者の力点は、秀吉は「非農業民」の出身であったとの指摘です。「非農業民」(著者の叙述では単なる商人なのか、被差別民なのか判然としないところがありますが)であったがゆえに、旧来の常識にとらわれず、一人だけ異次元の行動をとることができたのだ、という論旨になります。本章では直接この点を論述している量は多くはありませんが、第二章及び第三章においても通底しているイメージとなっています。
 なお、藤田氏は、「信長は〈中略〉秀吉のことは「禿鼠(はげねずみ)」と呼んだが、「猿」と呼んだ確証はないのである」と指摘しているが、一般的には織田信長黒印状(『増訂織田信長文書の研究』七〇〇号文書)に「猿帰り候て」とあることから、「猿」と呼ばれていたことは間違いないとされています。
 第二章においては、本能寺の変について語られます。著者はこの呼び方に不快感を示していますが、一般的には「足利義昭黒幕説」と呼ばれている内容です。本能寺の変に関しては、近頃百花繚乱の感がありますので、桐野作人氏の『真説本能寺』(学研M文庫)、鈴木眞哉氏・藤本正行氏の共著『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書)、谷口克広氏の『検証本能寺の変』(吉川弘文館)等との併読をお勧めします。残念ながら私にはこの点について批評する知識がありません。
 続いて第三章ですが、これは藤木久志氏の『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会)への批判となっています。藤木氏についてはこのブログでその著書『刀狩り』を紹介させて頂いております。その『刀狩り』においても藤木氏の提唱する「豊臣平和令」の思想は基礎となっていたので、藤田氏のこの批判は興味深いものでした。
 藤田氏の指摘は以下の2点に集約されます。一つ目は「豊臣平和令」と呼べるような法令は無いということ。二つ目は秀吉の統一事業は、平和政策を基調とし平和を乱した大名を征伐したのでは無く、豊臣政権の恣意的な国分施策を貫徹するための戦闘行為であったとしています。
 私は他に比較すべきものを読んだことが無いので、軽々な事は申せませんが、この章は一読に値すると思います。
タグ:豊臣秀吉
posted by 天王寺屋 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 織豊政権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする