2007年07月15日

『戦史ドキュメント 川中島の戦い』平山優@

 前回、山本勘助について予告をしていながらいきなり肩透かしを食らわす形になってしまうかもしれませんが、今回は
  平山 優著『戦史ドキュメント 川中島の戦い 上』学研M文庫
  平山 優著『戦史ドキュメント 川中島の戦い 下』学研M文庫
を紹介したいと思います。
 なぜ、この本から紹介するかというと、山本勘助の生きた時代、状況を概観するのに便利だからです。
 みなさんよくご存知の戦国時代、しかも人気の武田氏のことですから、いまさら概説なんてと思うかもしれません。しかし、私達の戦国時代のイメージの多くは小説ドラマなどから作られたイメージであり、実際の史実とはかけ離れていることが間々あります。
 ところが、本書は一次史料(その当時発給された書状や日記など)を中心に叙述されており、学問的なレベルで武田氏研究のスタンダードともいえる内容となっております。
 特に、「武田家がなぜ連年にわたって他国へ戦争をしかけたのか?」という問いに対して、その当時の甲斐国の生産高や飢饉などの状況を説明し、武田政権の政策とその置かれた状況が密接に関係している点を指摘しており、非常に興味深い内容となっております。
 また、私としては諏訪氏を初めとして敵対、従属した諸豪族についても詳細に述べられているのは大いに参考になりました。他の武田信玄の伝記などではあまり触れられない内容であるので、私以外でも新鮮に感じる方は多いのではないかと思います。
 ところで、この本は前述のように、学術書レベルの内容を持っていると思いますが、平易な叙述(読みづらい原文には書下し文をルビでいれてあったりもします)であるので、予備知識のないかたでも、簡単に読めると思います。
 また、文庫!であることから安価(上巻651円 (税込)、下巻683円(税込) )であるというのも嬉しい限りです。
 さて、ここまで書いてきて、記述があまりに冗長になってきたので続きは次回にしたいと思います。
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2007年07月16日

『戦史ドキュメント 川中島の戦い』平山優A

 前回の続き『戦史ドキュメント 川中島の戦い』ですが、残念な点が二つあります。一つ目は書名にあるように、あくまで「川中島の合戦」がテーマですので、第五次川中島合戦(永禄7年(1564))を以って記述が終了してしまうことです。当然これ以降も知りたくなるのが人情ですが、同じ学研M文庫の「三方ヶ原の戦い」も「長篠の戦い」もあくまでそれぞれの「戦い」を中心においているので、武田家の歴史を概観するというものではないのです。もともと「戦史ドキュメント」と銘打っている訳ですから、内容としてはこれらの方が正しいという気がしますが・・・。
 それともう一点、本来本書の中心となるべき第四次川中島の戦い(武田信玄と上杉謙信の一騎打ちがあったとされる戦い)について、特に目新しいことがないことです。
 これは、信用できる一次史料が限られているので、致し方ないことなのですが、この部分のみは信頼性の落ちる軍記物(『甲陽軍鑑』)をもとに構成されてます。
 よって、この本のメインであるにも関わらず著者自信が断っている(「つまり本書のこの部分は、完全に読み物としての性格を持たせることにしたのである」下巻(P241))通り、歴史学的な叙述というより小説的な叙述になってしまっております。したがって、「川中島の戦い」についての新知見を期待して買った人にはいささか食い足りないかもしれません。
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2007年08月20日

『信玄の戦争』海上知明

 前回で「山本勘助」は終わりましたが、昨年から今年にかけで武田家関係の本が山ほど出版されましたので、しばらくは武田関連本を紹介していきたいと思います。最初は、
   海上知明著『信玄の戦争』ベスト新書
です。
 この本は信玄の行動原理が中国古典兵書である『孫子』に基づいていることを解き明かし、さらにその『孫子』に基づいたがゆえの信玄の限界について述べておられます。結局、負けない戦争を心がけた信玄は、その為に時間をかけ過ぎ、「マキァヴェリズム」を貫いた織田信長は勝敗よりも時間にこだわったが故に、最終的な勝利者となりえたという訳です。
 この論が正しいのかは私にはわかりません。結局、人物の評価に関することは、結局もその人の主観でしかありません。読んだ人が納得できるかどうかを判断すれば良い物だと思っております。
 ただ、著者が上杉謙信のファンであることを自認しており、「上杉謙信は、世界史上最強と呼んでも過言ではない名将中の名将であった」と語っているなど、上杉謙信のファンにはたまらない一冊と言えるのではないでしょうか? 特に、有名な第四回川中島の合戦において、謙信自らがおとりとなって、信玄をおびき出すあたりは圧巻です。
一方、事実として気になった点があったので、それについて触れて見たいと思います。
 著者は、兵農分離について再三述べておられます。要約すると、信玄の軍は兵農未分離の共同体軍で、信長の軍は兵農分離された常備軍であること、また兵農分離された常備軍より兵農未分離の共同体軍の方が強いのは世界史的に常識であると述べています。
 ところで、信長の軍って兵農分離されていたのでしょうか? この点については後日もう少し調べてから報告しようと思いますが、私は武田軍と織田軍でこの点については、それ程違いはなかったと思います。
 次に、常備軍は共同体軍より弱兵であるという点です。これも後日調べてみたいと思っておりますが、マキァヴェリが、「傭兵は信用できない(または活用が難しい)から、共同体軍(市民軍)にすべきだ」と言っていたのは記憶していますが、常備軍(兵農分離しているという意味では傭兵も同じでしょう)は共同体軍より弱いと言っていたのでしょうか?
 この本全体に言える事ですが、典拠や論証が省かれていることが多いので(その為、読み易くはなっていますが)、納得することも、検証することもできず、どうにも消化不良の感があります。
また、前述の川中島の合戦の記述は、『甲陽軍鑑』を始めとする軍記物の記述に基づいており、事実かどうか確認するすべがありません(この点は、川中島の合戦だけではなく、信頼できる一次史料だけで合戦の経緯を描くのはほとんど不可能なのでしょうがないのですが)。
以上、いろいろ批判も書きましたが、学術的な難しさがなく、結構楽しんで読める本でした。
 なお、この本に関してはかぎや散人さんが、私などよりずっと詳細に検討しております。
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2007年08月24日

『真説・川中島合戦』三池純正

 前回の海上知明著『信玄の戦争』で、上杉謙信は自らを囮とするために、妻女山に布陣したことが解説され、それがあまりにカッコ良かったので、本当のところはどうだったのだろうと思い次の本を読んでみました。
   三池純正著『真説・川中島合戦』洋泉社
 この本を読んでまず驚いたのは、上杉謙信の妻女山布陣は不可能であったということです。つまり、妻女山へ向う道沿いには鞍骨城を始めとする武田方の城砦群が多数存在し、これを突破しなくて妻女山へは登れなかったのです。そしてもし強行しようとすれば、多大な犠牲を伴うばかりか、敗軍してしまう可能性も高かったのです。
よって、著者の指摘通り、上杉謙信の妻女山布陣がなかったのは間違いないでしょう(なお、三池氏は実際に妻女山に布陣したのは、天正10年(1582)、上杉景勝の軍だったとしています)。
 さらに、三池氏は「この合戦については、その経過を示す確かな文献史料がまったく存在しないため、これから先は状況証拠の積み重ねによる、まったくの推測でしかないことを御断りした上で論をすすめたい」と述べた上で、自論を展開しています。
それは、定説のように、上杉軍が川中島の東側である妻女山に布陣し、そしてその後合戦へ以降していったのではなく、逆に川中島の西側にある善光寺街道を南下してきた上杉軍と、北進してきた武田軍が霧のため偶然出会ってしまったため、川中島合戦が起こってしまったのだというものです。
 この説については、上杉軍の南下(及び武田軍の北進)の理由が叙述されていないことなど、もの足りない点もありましたが、定説に代わる一試論として非常に興味深いものでした。
 なお、ついでに以前紹介した平山優著『戦史ドキュメント川中島の戦い』と、鈴木眞哉著『戦国15大合戦の真相』(こちらは未紹介)の川中島の合戦についての記述を読み返してみましたが、特に新しい発見はありませんでした。
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2007年09月02日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫@

 昨年から今年にかけて出版された山本勘助(武田)関連本の中で、私が最も勉強になったのはこの本です。
   鴨川達夫著『武田信玄と勝頼』岩波新書
 この本の内容は前半が古文書の読み方、後半が著者独自の信玄・勝頼像の提示になっております。
 特に興味深かったのは、前半の古文書の読み方です。古文書の読み方の解説本には良書がいくつも出ていますが、戦国時代にしぼったものはあまりありません。
 この本では、あくまで武田氏の例のみを挙げておりますが、それでも文書の読み方はもとより、文書の種別、偽文書の見分け方、年代比定の仕方などを平易に語っているため、まさに戦国時代の古文書入門といった感があります。
 物語として戦国史を卒業し、この時代を真剣に勉強したいと思われている方には本当にお勧めします。
 とはいえ、評価すればするほど、あら捜しをしてみたくなるもので、いくつかの点について本当かどうか調べてみましたので、次回以降で少しその点を述べさせて頂きたいと思います。
 
posted by 天王寺屋 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 武田氏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月03日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫A

 さて前回の続き『武田信玄と勝頼』です。
 まず調べたのは、著者が文書は手紙系(書状)のものと書類系(証文、これは著者独自の言葉)のものに大別できるということについてです。
 著者の指摘によれば、書状は、多くの場合先方への挨拶で始まり、用件を記したのち、「恐々謹言」という文言で結ばれ、月日のみを記して年紀(年号)は付けないということです。さらに紙の形態(料紙)は相手が家臣または近隣の大名である場合は竪切紙(通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名である場合は切紙(同じく横に半分に切ったもの)が、それぞれ多く見られるとしています。
 また証文については、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書であり、必要な事柄を事務的に記した上で、原則として「仍って件の如し(仍如件)」という文言で結ばれる(相手によっては書状と同じ「恐々謹言」を用いる場合もある)としています。また、書状系と違い、年紀が必ず記入され、料紙は永禄九年(一五六六)の夏ごろを境として、折紙が主流であったのを、原則として竪紙(紙の全面を用いる)で作るように改めたということです。
 さて、私の古文書のイメージといえば、様式の類型化はある程度まではできるものの、例外もかなり多くなるのではないかと思っておりました。
 そこで、元亀元年から信玄が死ぬまでの文書及び無年号文書の一部(具体的には『戦国遺文 武田氏編』第三巻の1489号文書から2121号文書)の中で、@武田家及び当主である信玄の発給した文書(つまり家臣の発給した文書を除いたもの)であり、A正文(写と偽文書の可能性を指摘されているものを除いたもの))であるものを調べ、著者の言うように書状と証文の区別が明確にきるかどうかやってみました。
 その結果、豈にはからんや、著者の区分からはずれるようなイレギュラーな文書は以外に少なかったのです(イレギュラー文書の一覧は次回掲載します)。
 詳細を言うと、全文書311件中、31件(10%)がイレギュラーな文書でした。さらに、著者は料紙について、書状は、竪切紙、切紙が多いとし、証文については“原則として”竪紙に改めたと、含みを持たせていますので、これを除くとイレギュラーな文書は20件(6.4%)となります。
 そして、著者の区分に、「条目」は内容的には証文であるが年紀がない(4件)の条件を加えると更に確度が高まります。この条件を加えるとイレギュラーな文書は16件(5.1%)にしかなりません。
 このイレギュラーな文書の中には、右筆(書記者)等が書き落とした単なるミスの可能性もありますし、また、偽文書である可能性もあります(実際にかなり怪しいものもあります)ので、さらに詳細を調べればイレギュラーの率はさらに少なくなると思われます。
 よって私の調査した結果、著者の指摘はかなり的を得ていると言えると思います。
posted by 天王寺屋 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 武田氏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月04日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫B

〈イレギュラー文書の一覧〉*文書番号は『戦国遺文 武田氏編』による

1520号文書 感状ですから証文ですが年紀の記載がありません。また、書き止め文言もありません。
1523号文書 知行宛行の約束で、「仍如件」と結ばれていますから証文ですが、年紀の記載がありません。
1551号文書 朝倉義景宛の書状に折紙を使っています。
1557号文書 寺領の安堵状で、年紀もありますので証文ですが、「御下知候者也」と結ばれています。
1575号文書 年紀ありの官途書出状で、証文にあたると思いますが、折紙を使っています。
1584号文書 社領の寄進状で、年紀もありますので証文ですが、「仰之状如件」と結ばれています。
1595号文書 年紀ありの願文で、証文にあたると思いますが、「仍祈願状如件」と結ばれています。
1603号文書 知行宛行状で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、「出置者也」で結ばれてしまっております。
1630号文書 年紀ありの起請文で、証文にあたると思いますが、「仍起請文如件」と結ばれています。
1687号文書 棟別改日記と呼ばれるもので、年紀があり証文にあたると思いますが、「可収納者也」で結ばれてしまっております。また、料紙は折紙です。
1705号文書 下間頼廉宛の書状に折紙を使っています。
1711号文書 重恩宛行状で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1712号文書 知行書上状で、年紀もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1713号文書 重恩宛行状で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1715号文書 知行宛行状で、年紀もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1729号文書 寺領の寄進状で、年紀もありますので証文ですが、「恐惶敬白」と結ばれています。
1730号文書 伝馬手形で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、料紙は竪切紙です。
1733号文書 下間上野宛の書状に竪紙を使っています。
1744号文書 一色氏宛の書状に竪紙を使っています。
1863号文書 年紀ありの過所(通行手形)で、証文にあたると思いますが、「〜之状如件」と結ばれています。
1892号文書 供僧職の安堵状で、年紀もありますので証文ですが、「可相勤者也」で結ばれてしまっております。
1921号文書 条目と呼ばれるもので、証文にあたると思いますが、年紀がありません。
1925号文書 諸役免許状で証文ですが、年紀がありません。なお、書き止め文言が「仍而如件」となっています。
1928号文書 条目で、証文にあたると思いますが、年紀がありません。
1990号文書 条目で、証文にあたると思いますが、年紀がありません。
2047号文書 宛名欠の書状ですが、「以上」で結ばれています。
2075号文書 宛名欠の書状ですが、竪紙が使われています。
2077号文書 成就院宛の書状ですが、竪紙が使われています。
2085号文書 牧伊勢守宛の書状ですが、竪紙が使われています。
2091号文書 安中景繁宛の書状ですが、竪紙が使われています。
2121号文書 条目で、証文にあたると思いますが、年紀がありません。

なお、以下のものは、イレギュラー扱いとしませんでした。
@内容が箇条書きのみで書かれているもの(「条目」など)は、以上(已上)や右具在前(具在前)で結ばれていますが、これは本文がないため「仍如件」を使う必要がなかったものと判断しました。
A同様に官途書出状なども本文がないので、「仍如件」を使う必要がなかったものと判断しました。
B著者は書状の書き止め文言を「恐々謹言」しか挙げておりませんが、「恐々敬白」、「恐惶敬白」も散見されます。しかしながら、これはイレギュラーとしては扱いませんでした。
C料紙に続紙を使ってあるものは、単に文章が長くなったためこのような用紙になったとだけだと思われますので、これもイレギュラーとしてはおりません。
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2007年09月05日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫C

 さて、『武田信玄と勝頼』の4回目です。 
 今回はに武田氏の印判である龍を刻んだいわゆる「龍朱印」と当主の諱を刻んだ「晴信」の朱印についてです。
 この点について著者は、龍朱印は、上位の印判であり、戦場のように、破損や紛失の恐れのある場所には、持って行かなかったとして、戦場に近い場所では、龍の朱印を捺すことができず、代わりに下位の印判である「晴信」の朱印を捺印したと述べております。
 これに対して、片桐昭彦氏は「戦国期武田氏の文書発給システムと権力」(『歴史学研究』736号)において、「武田家では当主が在陣中には家印である龍・獅子両印判を携帯していたのである」と述べております。
 はたして、どちらが正解なのでしょうか? 
 片桐昭彦氏は、@天正7年(1579)8月末から12月初頃まで勝頼は駿河国江尻に在陣したと思われるが、その間に、武田家が発給した奉書式印判状が八通(龍朱印七通、獅子朱印一通)存在すること、A永禄四年(1561)長窪大門□中宛、龍朱印状において、文中に「陣下へ可注進者也」とあることから、信玄が在陣中に龍朱印状が発給されたとしており、竜朱印が常に当主と伴にあったことの根拠としております。
 また、著者の根拠としては、「晴信」朱印を押した感状が合戦の当日に発給され、一方竜朱印を押した感状は合戦から日をおいて発給されたことを根拠としています。
 いずれも相応の根拠があることから、「龍朱印が全く持ち出せなかった」とか「常に当主と共にあった」とは一概に言えないと思われます。
posted by 天王寺屋 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(2) | 武田氏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする