2007年07月17日

『山本勘助』上野晴朗

 さて、いよいよ山本勘助についてです。
まずは、山本勘助を語る上で欠かせない、
   上野晴朗著『山本勘助』新人物往来社
です。
 この本はながらく絶版となっておりましたが、今年の大河ドラマの放映に合わせて復刊されました。山本勘助を研究のエポックとなった本であり、山本勘助を研究するなら必備の書と言えるでしょう。
 内容は、市川文書の発見により山本菅助(勘助)の実在説が浮上する中、著者はそのフィールドワークによって、勘助の実在を証明して行くという内容となっています。
 調査内容が家伝や伝承などの類であることから、いわゆるアカデミックな内容ではありません。しかしながら、山本勘助に関する信頼できる史料が書状一枚しかない以上、山本勘助に関して書くということは、自ずとこのような手法にならざるを得ないということではないでしょうか? その意味ではこの本は、その当時の山本勘助研究の一つの到達点を示しているといえるでしょう。
しかしながら、初版の発行が1986年と今から20年も前であり、いかにも古いという感じは否めません。最近注目された萩藩閥閲録中の記事などついても(それが信頼できないものであるとしても)、言及が欲しいところです。
 よって「山本勘助に関する本を一冊だけ」という方に、この本をお勧めするのはためらいを感じます。あくまで二冊目、三冊目に購入する本だと思います。
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2007年07月18日

『山本勘助』平山優

 さて、今回は先日紹介した『戦死ドキュメント 川中島の戦い』の同じ著者の
  平山優著『山本勘助』講談社現代新書
を紹介いたします。
 この本、書評などをみると非常に高評価を得ているようにみえます。確かに非常に真摯に山本勘助に取り組んでいらっしゃると思います。
 しかしこの本は、多くの読者が期待するような「山本勘助の実像」に迫るといった趣旨の本ではありません(唯一、「終章」のみがわずかに実像について考察しております)。
 本書のテーマはあくまで『甲陽軍鑑』に描かれた山本勘助像を解説するといったものです。ところが、皆様ご存知のようにこの『甲陽軍鑑』は、歴史的事実からかけ離れた記述が多く、極論すれば「思想書」または「小説」に当たるものです。ということは、「司馬遼太郎の小説の中で、坂本竜馬はどのように描かれているか」をテーマとしているのと同じであると言えます。 ということで、「山本勘助の実像」を知りたいと思って購入した読者は期待をはぐらかされてしまうではないでしょうか?
 よって、私は前回紹介した上野晴朗氏の著書同様、「山本勘助に関する本をどれか一冊」と言われた場合、この本を推薦するのは躊躇してしまいます。
 とはいえ、山本勘助については『甲陽軍鑑』以降に附加された部分が非常に多く(例えば「武田信玄の軍師だった」などということは『甲陽軍鑑』にさえ記述されておりません)、山本勘助の原初のイメージを掴むという意味では好著だと思います。
 また、私としては「終章」で『甲陽軍鑑』の作者の一人である大蔵彦十郎と山本勘助の共通点の指摘(明確には書いてありませんが、山本勘助は彦十郎が自身をモデルとして創作したというニュアンスが含まれているように思えます)が、興味深く思えました。

 さて、本日紹介したこの本が、『甲陽軍鑑』で描かれた山本勘助像を、その文脈に沿って紹介した本であるなら、次回ご紹介するのは、その『甲陽軍鑑』描かれた山本勘助像がいかに“いい加減か”ということをテーマにした本です。
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2007年07月19日

『軍師山本勘助』笹本正治

 今回は平山優氏と同様に武田氏研究家として著名な著者が書いた
  笹本正治著『軍師山本勘助』新人物往来社
です。
 この本は前回の平山優氏の著書とは全く逆に『甲陽軍鑑』に描かれた「山本勘助」の言動が如何に矛盾に満ち、いかに信用できないか、ということを切々と語る内容となっています。
 具体的には天文13年(1544)の話として、毛利元就は中国地方のほとんどを切り従え・・・と書いてあるが、毛利氏がこのような版図を持ったのは、この後の話であり年代が合わない、といった具合です。
 つまり、著者は『甲陽軍鑑』に描かれた「山本勘助」は、あくまで創作されたものに過ぎないと言っているようです。
 その昔、これも武田氏研究家として著名な柴辻俊六氏から「抹殺博士」に例えられた著者の面目躍如といったところでしょうか。
 山本勘助のファンの方は、気分を害するような内容ですが、この本は『甲陽軍鑑』に描かれた山本勘助像について、警鐘をならすという意味で非常に重要な本だと思います(今まで勘助について否定的な見解を述べる人もいましたが、これほど『甲陽軍鑑』と正面から向き合い検討したものはなかったと思います)。
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2007年07月20日

「検証 山本勘助「非在」説」柴辻俊六

 さて、今回は少し趣向を変えて、単行本ではなく雑誌に載せられた小文の紹介です。
 上野晴朗氏、平山優氏、笹本正治氏と武田氏の研究で著名な人の作品をこのように三冊紹介してきますと、武田氏研究の権威とも言うべき柴辻俊六氏が山本勘助をどう考えているのか知りたくなってしまいました。
 以前、柴辻氏が編著した『武田信玄大事典』(新人物往来社)という本を購入しましたが、そこには「山本勘助」の項が立てられておらず、愕然としてしまったことを覚えております。ですから、柴辻氏は当然山本勘助を否定的に感じていらっしゃるものとばかり思っておりました。
 ところが、今回、以下のものを発見しました。
  「検証 山本勘助「非在」説 −争点 山本勘助の謎と伝説−」
  『歴史読本』一九九八年五月号
 ここでは、なんと山本勘助に関して、留保が付くとはいえ、意外にも肯定的に書かれていました。
 そもそも柴辻氏は今回の大河ドラマの時代考証も担当して居られますし、全面的に山本勘助を否定していたら、こんなお仕事引き受けられないですよね。
 内容は、特に目新しいものは無いので、結論だけを要約しますと、「『甲陽軍鑑』に書かれた勘助像はすべて創作とはいえないが、他にくらべてその感が強い。勘助の存在自体は否定しないが、実像についてはまだまだ謎の多い人物である」ということでした。
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2007年07月21日

『山本勘助とは何者か』江宮隆之

 今回は、山本勘助関連書籍の五回目、
  江宮隆之著『山本勘助とは何者か』祥伝社新書
です。
 今までの勘助本の著者がいわゆる学者さんであったのに対し、この本の著者は作家さんということになります。
 そのせいでしょうか、内容を一言で言えば「ごった煮」です。勘助に関する基本的な情報や『甲陽軍鑑』についての説明があるのははもちろんですが、「山本五十六」の話や江戸時代の勘助が登場する文芸(歌舞伎・浄瑠璃・川柳)をはじめ近代の井上靖氏をはじめとする小説まで幅広く取り扱っており、そのあまりの広範さに思わず節操のなさを感じてしまうほどです。
 このような内容に驚く一方、残念ながら著者の独創や新知見などはありませんので、ある程度山本勘助について知識のある人であれば、退屈な内容だと思います。
 とはいえ、以前少し触れた「萩藩閥閲録」中の勘助の子孫の記事や勘助讃岐出身説などの近年の発見についても触れられており、山本勘助の現在の研究成果を概観するのにはちょうど良いような気がします。何より文体が平易で読み易いため、「勘助本」を初めて読む人にはベストなのではないでしょうか(電車の中で気楽に読めると言った感じです)。
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2007年07月23日

『山本勘助のすべて』上野晴朗・萩原三雄編

 今回は、山本勘助関連書籍の六冊目、
  上野晴朗・萩原三雄編『山本勘助のすべて』新人物往来社
です。
 この「〜すべて」シリーズはもう何冊目になるのでしょうか?発行されるとどうしても収集癖がおさまらず、つい買ってしまいます。
 さて、内容ですが各編それぞれ執筆者が異なりますので、それぞれ全く異なった視点で書かれてはいるのですが、しかしながら、他の本を既に五冊も読んできますと、ほとんどどこかで読んだような話なので、かなり食傷気味です。
 そんな中で、多少なりとも独創的なものを感じたのは、数野雅彦氏の「甲府城下町の山本勘助屋敷」と西川広平氏の「山本勘助と足軽」でした(それから「山本勘助人名辞典」は利用するのに便利)。
 前者は、甲府城下町の古絵図を丹念に調査したものですが、如何せん最古の古絵図でも勘助死後100年後であり、どこまで信頼できるのかぎ文です。
 一方、後者は勘助の話というより、「武田家における足軽の立場、役割」といったもので、山本勘助自身のことを描いた訳ではありませんが、一次史料(古文書)を利用し、史料が少ない中、多角的に説明してあったので、他の章よりはずっとアカデミックな内容となっております。
 以上から、値段的なもの(2800円)が高くないと感じる人のみ購入をお勧めするといった感じでしょうか。
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2007年08月02日

『山本勘介の謎を解く』渡辺 勝正

 今回は、山本勘助シリーズの最終回、
  渡辺勝正著『山本勘介の謎を解く』大正出版
です。
 最初は、キワモノのように思えて買う気はなかったのですが、読んでみたら意外に面白かったです。とはいっても、著者の説が全く正しいというわけではありません。
 内容としては、「山本勘助讃岐出生説」というべきものです。この根拠は、二つの材料の組み合わせよってなりたっています。一つ目は山口県に伝わる伝承で「四国の讃岐に生まれ、山口に来て大内義隆に仕えた」(「大内伝承」と言っている)というものです。もう一つは『萩藩閥閲録遺漏』に採録された「山本家言伝之覚」に「元甲州武田ノ臣山本勘介之後胤と云、已後郷士と成、代隔元就公御代御当家え附属し」とあることから、山本勘介は讃岐に生まれ、武田家に仕官する前に大内氏に仕えていたのは間違いないとしています。
 さて、この本で一番おもしろかったのは、現在山本勘介の生誕地として最も有名な「駿河山本誕生地説」について、その根拠となっている「吉野家祖先累代略歴」などに対して、歴史的事実と照らし合わせると矛盾が多いと実例を挙げて指摘していることです。類書では、これら生誕地は紹介される事はあっても、批判しているものはなかったので新鮮でした。
 ところがこの「駿河山本誕生地説」などについては厳密に史料批判を行い手厳しく批判しているのですが、自説である「讃岐出生説」については、史料批判なしに史料を盲信しており、甘さが目立ちます。
 直接の根拠としている「大内伝承」はあくまで伝承に過ぎません。また「山本家言伝之覚」については比較史料がないため直接批判するのが困難ですが、同じ『萩藩閥閲録遺漏』に採録された文書で、本書でも採り上げられている2件の文書は偽文書です。
 具体的には@「(永禄4年)9月8日付、山県三郎兵衛宛信玄書状」(これには「山本勘介」の名も出ています)、A「(永禄4年)9月13日付、山県三郎兵へ宛信玄(晴信)書状」の2件ですが、偽文書である理由は作家の桐野作人氏が自身のブログで指摘おります。この理由とは@Aとも永禄四年当時の文書ならば、昌景は飯富姓でなければならないのに、山県姓になっていること、さらに@は「恐々かしく」という書き止め文言がおかしく(武田氏の文書では類例がないと思います)、Aは「(上杉)輝虎」と記載されていますが、これも政虎でなければおかしいのです。だいたい@は『閥閲録』自体に「此御書不審」と記載されておりました。
 というように、この本では少し調べれば矛盾点に気付くような史料も批判なしに自説の根拠となっております。筆者は『萩藩閥閲録遺漏』について「萩藩の公儀で認定されたこの覚書は、民間に私蔵されている文書類とはわけが違う」と盲信しております。ですから、「山本家言伝之覚」に記載されていることは正しく、また自説も正しいのだという論理になってしまっております。
 しかしながら、前述の信玄書状のように『萩藩閥閲録遺漏』であっても偽文書が含まれており、盲信するわけにはいきません。
 よって、この「山本勘助讃岐出生説」についても、他の伝承地以上の真実を含んでいるとは言えないと思います。

 余談ですが、この筆者は「勘助」ではなく、「勘介」と表記することにこだわっております。根拠としては「山本勘介の原典は何といっても『甲陽軍鑑』である。この書では二五八ヵ所に「勘介」という字を使い、「勘助」の字は三ヶ所だけである。また『萩藩閥閲録遺漏』に収録された勘介子孫の由緒書には、「勘介」が二つ、「勘助」が一つ書かれている。また『遺漏』の川中島合戦直前に「信玄」が山県三郎に出した書状は「勘介」となっている。吉田松陰が授かった「山本勘介道鬼流」の免許状は「勘介」である」ということらしいのですが、私の所有している『甲陽軍鑑大成』で調べますと(『甲陽軍鑑』一部(二巻と三巻)で調べました)、「勘介」9件、「勘助」9件と同数であり、差異はみられませんでした。とすれば、これは版本(手写本)による違いに過ぎず、各版本(書写本)の校合を厳密に行なわなければ、「勘介」を正しいとする根拠にはなりえないと思います。
 
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2007年08月05日

山本勘助まとめ@〈牛久保出生説〉

 これまで山本勘助の本をずっと読んできまして、せっかくなのでいくつかの点についてまとめて見ようと思います。
 長くなりそうなので、何回に渡るかわかりませんが、よろしくお付き合いください。
 それではまず、生誕地から。

愛知県豊川市牛久保出生説〉
 『甲陽軍鑑』末書下巻下には、山本勘助の以下のようなプロフィールが記載されています。
  山本勘介うハさ、五ヶ条之事
  一、山本勘助入道道鬼斎ハ、本国三河牛窪の者也
  二、廿六歳にて本国を出、武者修行、或ハ行流兵法など教、日本国をあ
    りく儀、既十年の間也、明応九年庚申生也
  三、拾一年目より、駿州へ参り、今川義元公御家を望ミ、今川牢人家老
    庵原殿と申侍大将のかいほうを請、九年駿府に罷在候へ共、義元公
    御拘なき故、甲州信玄公へ被召寄候事
  四、勘介、甲州へ四十四歳にて参候、其時分ハ信玄公廿三歳也
  五、信玄公卅一歳にて御法躰の時、勘助五十二にて法躰仕、道鬼に罷成
    候、六十二歳の時、川中嶋合戦ニ討死仕也、甲州にて城取其外軍法
    悉皆山本勘介流也、如件
 また、『甲陽軍鑑』の本文にも「生国ハ三河うしくぼの侍、山本勘助」(巻九)、「いかに山本勘助、うしくぼの少身なる家よりいでゝも」(巻三)など山本勘助の出生地は三河国牛窪(牛久保)であると記述されています。
 ところが、現地の牛久保では勘助出生を物語るようなものは無く、逆に牛久保でほとんど唯一勘助と縁がある場所といえる武運山長谷寺では、賀茂町(愛知県豊橋市)の生れとしています(但し、静岡県富士宮市や賀茂町での伝承では、勘助の養家である大林家が牛久保にあったとしています)。
 このことから渡辺勝正氏は『山本勘介の謎を解く』の中で、『甲斐国志』の編者を始め、さまざまな人が当然この地を調査したはずなのに、生誕地の根拠が見出せないのは、この地が生誕地ではない証拠であると指摘しております。
 しかしながら、山本勘助はその生前時、それ程有名人であったとも思われず、生誕地など忘れ去れていても全くおかしくはないのではないでしょうか。
 市河文書を除けば、勘助について語っている根本史料は『甲陽軍鑑』以外にありません。よって、みなさんが通常イメージするような勘助像を受け入れるのであれば、この「豊川市牛久保出生地説」を執るのが正道のような気がします(ただし、それが史実かどうかは別問題です)。

参考文献:
「豊川市牛久保の伝承」『山本勘助』上野晴朗
「豊川市牛久保の伝承」澤山哲也『山本勘助のすべて』上野晴朗・萩原三雄編
「「三河国牛窪村」の疑問」『山本勘介の謎を解く』渡辺勝正
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2007年08月06日

山本勘助まとめA〈富士宮市出生説〉

静岡県富士宮市山本出生説〉
 「牛久保出生地説」と並んで、現在最も認知されているのがこの「富士宮市山本出生説」です。
 なぜこの説が多くの人に受け入れられているかといえば、『甲斐国志』という文献で紹介されたからでしょう。
 この『甲斐国志』は、文化11年(1814)に甲斐に関連する地誌、人物、文物などを網羅しようと甲府勤番支配・松平定能が編纂した124巻からなる文献です。この『甲斐国志』は、その当時できうる限りの史料批判をおこなって叙述されているので、その姿勢が高く評価され、山本勘助のみならず山梨県の歴史を研究する上で必須の文献とされております。
 それによれば『甲陽軍鑑』を引いた部分で「参州牛窪の人なりと云う」記述している箇所もありますが、一方で、
  一本系図に勘助が先は駿州の源氏吉野冠者の後胤〈鎮守将軍源満政の
  裔、本田重賢の男太郎重季、吉野冠者と号す。承久の乱に京方に在り。
  蓋し是か。今富士郡山本村吉野茂兵衛と云う者の所蔵天文・永禄の間今
  川家文書数通、其の外にも吉野氏の事間々見えたり。〉吉野浄雲入道貞
  倫累世山本村に住す。八幡宮の祝戸なり。貞倫の二男弾正貞久、今川家
  に仕え功あり。氏を改め山本と云い、兜の前立に八幡の神号を彫る。家
  紋三巴なり。所領は山本の内三沢・石宮・参州加茂の内合せて三百貫、
  文明10戌年(1478)7月12日参州にて戦死す。法名鉄関直入禅
  定門、其の男図書某〈名を亡う〉。後、弾正と改む。妻は庵原安房守の
  妹なり。〈異本に山本弾正の女、庵原の妻ともあるは二代の安房守なり
  や。〉弾正の男数人あり。第四を源助貞幸と云う。年12、参州牛窪牧
  野右馬允の家令大林勘左衛門の養子となり、名を勘助と改む。年20に
  して、故有り養家を辞す。諸州に編歴する事三十余年後、武田家に仕え
  諱字を賜い晴幸に改む。時に年52。〈戦死の事同前。〉法名は鉄岩道
  一禅定門、駿州富士郡山本村宗持禅院に牌あり。
と記しております。
 ここに記述されている吉野家は現存し、由緒書だけでなく、葛山氏(今川氏家臣)から与えられた古文書を所持しており、戦国時代からつづく由緒ある家であることは間違いありません。この由緒正しさが『甲斐国志』他この説を説く人たちに信頼性を与えているのでしょう。
 しかしながら、書評(渡辺勝正著『山本勘介の謎を解く』)でも紹介したとおり、渡辺勝正氏は、この富士宮市出生説の根拠とされる「吉野家祖先累代略歴」や勘介の母といわれる「安女」の墓の矛盾点を看破しており、この説も信用するに足りないものであることがわかります。
参考文献:
「富士宮市山本の伝承」『山本勘助』上野晴朗
「山本勘助の系譜・一族」吉野清『山本勘助のすべて』上野晴朗・萩原三雄編
「「吉野家累代略歴」の疑問」他『山本勘介の謎を解く』渡辺勝正
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2007年08月07日

山本勘助まとめB〈賀茂出生説〉

愛知県豊橋市賀茂出生説〉
 前述の「牛久保出生説」では、現地の牛久保では勘助出生を物語るようなものは無いと書きました。その一方、山本勘助ゆかりの摩利支天像や勘助の墓のある武運山長谷寺の案内書では、勘助の生誕地を、「三河八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)」としています。
 ではこの賀茂の伝承はどうなっているのでしょうか?
 この賀茂には山本勘助の両親の墓(医王山本願寺)などがあり、勘助の兄の子孫とされる方々もいらっしゃいます。
 また、富士宮市吉野家の伝承の中(「山本勘助のまとめA」の『甲斐国志』の記述を参照)でも「所領は山本の内三沢・石宮・参州加茂の内合せて三百貫」としており、賀茂も勘助と関わりがあったことを記しております(但し、この件に関しては渡辺勝正氏が今川氏が三河を領有した年代と合わないため虚偽であるとしています)。
 しかしながら、この説の根拠はこの地区の各所に伝わる口伝が中心で、特に由緒書や古文書などがあるわけではなさそうです。
 唯一ともいえる物証である山本勘助の両親の墓(これとて建立年代が不明です)は、その没年月日が天正年間であり、勘助の両親としては年代が合いません(100歳近くまで生きたことになってしまいます)。
 よって、この地の伝承がどの程度時代を遡れるのか、私にははなはだ疑問に思えます。
参考文献:
「豊橋市賀茂の伝承」『山本勘助』上野晴朗
「豊橋市賀茂の伝承」澤山哲也『山本勘助のすべて』上野晴朗・萩原三雄編
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2007年08月08日

山本勘助まとめC〈近江出生説〉〈讃岐出生説〉〈総括〉

〈近江国(滋賀県東近江市山本)出生説〉
 『名将言行録』がこの説を採用しています。この文献は明治2年(1869)に、旧館林藩士であった岡谷繁実が表わしたもので、「晴幸は近江神埼郡山本村の人なり」と書かれております。しかしながら、その理由は書かれていません。
 ある説では、新羅三郎義光の孫・義定が近江国山本郷に住んで「山本」を名乗ったとのことです。そのため、江戸時代、幕臣の山本姓のほとんどがこの近江をルーツにしているといわれます。よってこの説は、このような所から類推されたものにすぎないとされています。
 また、笹本正治著『軍師山本勘助』に引用されています栗原信充著『続玉石雑誌』(天保15年(1844)刊)に、「山本勘助晴幸入道道鬼は、明応二年癸丑五月五日近江国神崎郡山本村に生る(中略)、近江源氏山本九郎時綱の末葉と云り」と記述されていますので、『名将言行録』もこの説をとりいれたことも考えられます。
参考文献:
「幻のふるさと」『山本勘助とは何者か』江宮隆之
「伝説の中の山本勘助」『軍師山本勘助』笹本正治

〈讃岐(香川県)出生説〉
 この説は渡辺勝正著『山本勘介の謎を解く』の書評でも紹介し、繰り返しになってしまいますのでそちらをご覧下さい。
参考文献:
『山本勘介の謎を解く』渡辺勝正

〈各生誕地説の総括〉
 以上述べてきたように、各生誕地説とも私にはそれぞれ瑕疵があるように思えます。よって今だ山本勘介の生誕地は謎の一つということにせざるを得ないでしょう。
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2007年08月10日

山本勘助まとめD〈山本勘助の生年〉

 次に山本勘助の生年について、見てみましょう。
 「山本勘助まとめ@」で掲載した『甲陽軍鑑』末書下巻下の山本勘助のプロフィールでは「明応9年(1500)申庚生也」と記述され、没年齢を62歳としています。その一方同じ『甲陽軍鑑』巻9で天文16年(1547)に勘助が55ヵ条の法度の制定を進言した際、55歳であったと記述されています。これを逆算すると明応2年(1493)生まれとなります(渡辺勝正氏は、このことについて「山本勘介55歳は、まるで「55ヵ条」に符合させたかのように見える。(中略)『甲陽軍伝解』では、同文ながら勘介の年令のみが「四十八歳」と訂正されている」と述べておられます)。
 「山本勘助まとめA」で紹介した富士宮市出生説の根拠の一つである「吉野家祖先累代略歴」では「男子を生む、明応八己未(1499)正月9日寅ノ刻なり、これを源助と名づく」としております。
 また、この富士宮出生説を広めた『甲斐国志』では永禄4年、69歳戦死とありますから、明応2年(1493)出生ということになります。
 以下、勘助の出生年ついては、賀茂出生説では、出典により相違、近江説及び讃岐説では触れていません。
 このように、山本勘助は生誕地だけではなく、生年についてもまちまちなのです。
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2007年08月11日

山本勘助まとめE〈山本勘助と「軍師」〉

 これは、散々言われていることですが、山本勘助は「軍師」ではありません。『甲陽軍鑑』でさえも、山本勘助を「軍師」としてはいないですし、だいたいこの時代に「軍師」という言葉自体がなかったようです。
 石川博氏によれば、享保6年(1721)に成立した近松門左衛門の浄瑠璃『信州川中島合戦』には、武田信玄の「軍師」として山本勘助が登場することを指摘されているので、この頃が「軍師」と言う言葉の上限と思われます。
 一方、『甲陽軍鑑』にも記載されている言葉で「軍配者」という言葉があります。勘助はこの軍配者であったので、軍師として見ても差支えないとする意見があります。しかしながら、軍配者は日取りや気の流れなどから合戦の吉凶を判断する人たちのことです。我々が想像するような戦術を主君に提案したり、軍勢の指揮などを主君に代わって執ったりするような人のことではありません。
 また、勘助を信玄の参謀であったとして殊更高い評価をあたえているケースがあります。しなしながら、勘助が参謀であるなら、軍議に参加する諸将(御譜代家老衆など)は全て参謀ということになってしまいます。
参考文献:
「「軍師」ではなかった」『山本勘助』平山優
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2007年08月12日

山本勘助まとめF〈「晴幸」の諱〉

 山本勘助の諱の「晴幸」ですが、これもよく言われているように、武田晴信(信玄)の「晴」の字は将軍である足利義晴から拝領したものなので、勝手に第三者に与えるなどということはありえません。
 この「晴幸」の諱についても『甲陽軍鑑』でさえ出てきません(前回の「軍師」という言葉と一緒です)。筆者の手元にある『武田三代軍記』(正徳5年(1715)成立)には「斯テ晴信ノ一字ヲ賜テ山本勘介晴幸ト号ケ」と記述されていますので、おそらく出典はこのあたりではないかと思います。
 ところで、この件について、渡辺勝正氏は興味深いことを指摘しておられたので、少し調べてみました。
 氏の指摘は「大内義隆自害後、大友晴英を大内の盟主に招くにあたって陶隆房は、天文二十年十月末、晴英に乞うて「晴賢」の名を賜り、「陶晴賢」となっている。大友晴英の「晴」は、将軍足利義晴から賜った「晴」である。だから大友晴英から拝領した「陶晴賢」の「晴」については、どのように解釈すればよいのか。」というものです。
 確かに言われて見ればその通りです。そこで、この件を具体的にみてみますと、まず、「晴賢」と改名したのは天文20年(1551)10月から11月の間だそうです(福尾猛一郎著『大内義隆』による)。晴賢が大内義隆を弑逆したのは同年の9月ですから、その直後に改名したわけです。
 ただし、この件に関しては翌々年の同22年1月の「蜷川家文書」によれば、陶晴賢から偏諱拝領の礼物が届いたことに対し、将軍足利義藤(後の義輝)がその返礼として太刀を下賜しています。つまり、同21年に義輝は晴賢に偏諱を与えていることがわかります。
 確かに@事後(改名後)の承認であること、A与えた偏諱が「義藤」の諱の一字ではなく、「晴」の字であることなど、問題点はあるものの、勝手に偏諱を名乗った訳ではないようです。
 では、勘助の諱の場合はどうでしょうか? 残念ながら陶晴賢のように将軍が偏諱を承認した記録がありません。そもそも、陪臣とはいえ従五位上の官位を有する晴賢と違い、無位無官の勘助に偏諱を承認するでしょうか。それでも信玄が「晴」の字を与えたとするならば、これは僭称になってしまいます。
 よって、この諱の件も、『甲陽軍鑑』でさえ記載していないぐらいですから、かなりマユツバものといえると思います。
参考文献:
「武田晴信と山本晴幸」『山本勘介の謎を解く』渡辺勝正
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2007年08月14日

山本勘助まとめG〈『甲陽軍鑑』の記述の矛盾〉

 前々回、前回と『甲陽軍鑑』にさえ記述されていないのに、私達の常識となってしまっている点について考察しましたが、今回は『甲陽軍鑑』の中での記述の矛盾について笹本正治氏が『軍師山本勘助』の中で述べていますので、私見も交えながらそれに沿っていくつか見てみましょう。
 @『甲陽軍鑑』巻3で、勘助が駿府にいた頃、悪し様に言われ今川家では仕官できなかったことが記述されています。この仕官できなかった原因について、『甲陽軍鑑』は「今川殿の御家が万のことを取り失い、家が末になって、武士の道に不案内となっていたので」と説明をしています。ところが、勘助が駿府にいた頃(勘助は天文12年(1543)(記述の『甲陽軍鑑』末書下巻下では計算すると天文14年)に武田家に仕えているのでそれ以前)は、今川家はまだ発展途上であり、これ以降領国を拡大してゆくことになるのです。よって、勘助が駿府にいた時に、今川家は「家が末になって」と言うことはできないのです。これは後年の今川家の状況を知っている著者(または編纂者)が勘助に語らせた言葉としか思えません。
 A同じ巻3で、勘助の兵法(剣術)が、評価の高い新当流でなく、京流であることが低評価の一因になっています。新当流は塚原卜伝(延徳元年(1489)生まれ)が開いた剣術の流派ですが、勘助が駿府にいた時代に新当流の評価がこれほどまで高かったとは思われず、これも時代が合いません(新当流の評価がこれ程まで高ければ、新当流についてもっと同時代の史料が残っていても良いと思います)。
 B武田信玄が諏訪頼重を亡ぼした後、勘助は信玄と諏訪御料人(勝頼母)を結びつけたとしています(巻9)。しかし、史実では信玄が頼重を亡ぼしたのは天文11年であり、『甲陽軍鑑』が記す勘助が武田家へ仕官した年(天文12または14年)より前です。そのため、『甲陽軍鑑』では信玄が頼重を亡ぼした年を天文14年として整合性をとっていますが、事実に合いません。
 C同じ箇所で信玄と毛利元就比較し、勘助は「毛利元就が中国地方のほとんどを切り従え、四国九州までもその威光が通用しているので、将軍に意見を言う三好方も彼に横嫌をとっている」と述べていますが、これも、毛利氏の版図拡大の契機となる厳島の戦いが弘治元年(1555)、宿敵尼子氏を亡ぼしたのが永禄9年(1566)ですから、「毛利元就が中国地方のほとんどを切り従え」という状況は勘助死後のことなのです。ですから、天文年間に勘助がこのように述べる事はありえません。これも@の今川家の場合と同様、後年の状況を知っている著者(または編纂者)が勘助に語らせた言葉としか思えません。
 一方、この件に関しては、渡辺勝正氏が「毛利元就」を「大内義興」に置き換えれば、整合性がとれるとしております。つまり、大内義興も、謀殺した相手(内藤弘矩)の娘を側に置き、後継者(義隆)を得ています(さらに言えば、武田家も大内家もその後継者の代で滅ぶ訳です)。渡辺氏は直接触れてはいませんが、『甲陽軍鑑』の著者がその当時既に滅びてしまった大内氏の名前を避け、あえて毛利元就に替えてしまったとも考えられる訳です。さて、この渡辺氏の説はいかがなものでしょうか?
 以上、その他にも、勘助が活躍したとされる合戦がその年にあったとは考え難いこと、徳川の姓は勘助の死後である永禄9年に徳川家康の復姓によって知られるようになるのだが、勘助は「松平清康公といって、元来は徳河(川)の末があります」と指摘していることなど、細かい矛盾点を上げればきりがないほどです。
 よって、『甲陽軍鑑』に描かれた勘助像も、著者の創作とみえる所が多いと言わざるを得ないでしょう。勘助研究の根本史料である『甲陽軍鑑』を用いてさえ、勘助の実像を探り出すのは困難なのです。
参考文献:
「時代が合わない」他『軍師山本勘助』笹本正治
上記『甲陽軍鑑』の巻数は『甲陽軍鑑大成』によります。
posted by 天王寺屋 at 17:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 山本勘助 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月15日

山本勘助のまとめH〈勘助と城取〉

 海津城を始めとして山本勘助が城取(城の縄張り(設計))を行なったと伝えられる城がいくつかありますが、これも残念ながら証明する確実な史料がありません。
 武田氏の築城に関する史料も多くはないのですが、それでも、「村井ノ城ノ鍬立致高白候」(『高白斎記』天文17年10月)、永禄11年3月5日付工藤源左衛門尉(内藤昌秀)宛書状に「此度深志普請之処、於于人足難渋之輩者、不撰貴賎可被行罪科候」(『戦国遺文 武田氏編』1247号文書)とあり、また新府城築城に関するものとして天正9年(1581)と推定される正月22日付け真田昌幸書状では(『戦国遺文 武田氏編』3485号文書)等が挙げられます。
 そもそも、城取の技能を認められて武田家に仕官した勘助ですから、これら築城関係の史料にその名が出てこないのは、やはり奇異に感じます。
さらに、城取において勘助の弟子とされる馬場美濃守ですが、この人も築城伝説の多い人ですが、築城関係の文書等にその名を見ることができません(勘助ほどではありませんが、馬場美濃守も同時代史料の少ない人ではありますが・・・)。
 ただ、馬場美濃守同心であった早川幸豊は、美濃守から勘助流の兵法を伝授されたとされ、後年、彦根城の築城に参画しています。勘助と城取を結びつけるとすれば、これが唯一の傍証でしょうか。
参考文献:
「山本勘助関係人名事典」『山本勘助のすべて』上野晴朗・萩原三雄偏
posted by 天王寺屋 at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 山本勘助 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

山本勘助のまとめI〈総括〉

 以上長々と山本勘助についてまとめてきましたが、勘助の出生地を始めとする伝承も、『甲陽軍鑑』に記載された内容も、事実とするには非常に心もとないものと言えます。
 このような現状では、まず『甲陽軍鑑』ではなく、勘助に関する唯一の一次史料である市河文書に基づく研究が必要と思われます。
 その意味で、市河文書に出てくる「山本菅介」が武田家の使者であることから、平山優氏が武田家の使者としての「山本菅介」について分析を行ったことは、非常に価値のあることだと思います。
参考文献:
「「信玄の使者」を分析する」『山本勘助』平山優
posted by 天王寺屋 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 山本勘助 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする