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静岡県富士宮市山本出生説〉
「牛久保出生地説」と並んで、現在最も認知されているのがこの「富士宮市山本出生説」です。
なぜこの説が多くの人に受け入れられているかといえば、『甲斐国志』という文献で紹介されたからでしょう。
この『甲斐国志』は、文化11年(1814)に甲斐に関連する地誌、人物、文物などを網羅しようと甲府勤番支配・松平定能が編纂した124巻からなる文献です。この『甲斐国志』は、その当時できうる限りの史料批判をおこなって叙述されているので、その姿勢が高く評価され、山本勘助のみならず
山梨県の歴史を研究する上で必須の文献とされております。
それによれば『甲陽軍鑑』を引いた部分で「参州牛窪の人なりと云う」記述している箇所もありますが、一方で、
一本系図に勘助が先は駿州の源氏吉野冠者の後胤〈鎮守将軍源満政の
裔、本田重賢の男太郎重季、吉野冠者と号す。承久の乱に京方に在り。
蓋し是か。今富士郡山本村吉野茂兵衛と云う者の所蔵天文・永禄の間今
川家文書数通、其の外にも吉野氏の事間々見えたり。〉吉野浄雲入道貞
倫累世山本村に住す。八幡宮の祝戸なり。貞倫の二男弾正貞久、今川家
に仕え功あり。氏を改め山本と云い、兜の前立に八幡の神号を彫る。家
紋三巴なり。所領は山本の内三沢・石宮・参州加茂の内合せて三百貫、
文明10戌年(1478)7月12日参州にて戦死す。法名鉄関直入禅
定門、其の男
図書某〈名を亡う〉。後、弾正と改む。妻は庵原安房守の
妹なり。〈異本に山本弾正の女、庵原の妻ともあるは二代の安房守なり
や。〉弾正の男数人あり。第四を源助貞幸と云う。年12、参州牛窪牧
野右馬允の家令大林勘左衛門の養子となり、名を勘助と改む。年20に
して、故有り養家を辞す。諸州に編歴する事三十余年後、武田家に仕え
諱字を賜い晴幸に改む。時に年52。〈戦死の事同前。〉法名は鉄岩道
一禅定門、駿州富士郡山本村宗持禅院に牌あり。
と記しております。
ここに記述されている吉野家は現存し、由緒書だけでなく、葛山氏(今川氏家臣)から与えられた古文書を所持しており、戦国時代からつづく由緒ある家であることは間違いありません。この由緒正しさが『甲斐国志』他この説を説く人たちに信頼性を与えているのでしょう。
しかしながら、書評(渡辺勝正著『山本勘介の謎を解く』)でも紹介したとおり、渡辺勝正氏は、この富士宮市出生説の根拠とされる「吉野家祖先累代略歴」や勘介の母といわれる「安女」の墓の矛盾点を看破しており、この説も信用するに足りないものであることがわかります。
参考文献:
「富士宮市山本の伝承」『山本勘助』
上野晴朗
「山本勘助の系譜・一族」吉野清『山本勘助のすべて』上野晴朗・萩原三雄編
「「吉野家累代略歴」の疑問」他『山本勘介の謎を解く』渡辺勝正