2007年08月12日

山本勘助まとめF〈「晴幸」の諱〉

 山本勘助の諱の「晴幸」ですが、これもよく言われているように、武田晴信(信玄)の「晴」の字は将軍である足利義晴から拝領したものなので、勝手に第三者に与えるなどということはありえません。
 この「晴幸」の諱についても『甲陽軍鑑』でさえ出てきません(前回の「軍師」という言葉と一緒です)。筆者の手元にある『武田三代軍記』(正徳5年(1715)成立)には「斯テ晴信ノ一字ヲ賜テ山本勘介晴幸ト号ケ」と記述されていますので、おそらく出典はこのあたりではないかと思います。
 ところで、この件について、渡辺勝正氏は興味深いことを指摘しておられたので、少し調べてみました。
 氏の指摘は「大内義隆自害後、大友晴英を大内の盟主に招くにあたって陶隆房は、天文二十年十月末、晴英に乞うて「晴賢」の名を賜り、「陶晴賢」となっている。大友晴英の「晴」は、将軍足利義晴から賜った「晴」である。だから大友晴英から拝領した「陶晴賢」の「晴」については、どのように解釈すればよいのか。」というものです。
 確かに言われて見ればその通りです。そこで、この件を具体的にみてみますと、まず、「晴賢」と改名したのは天文20年(1551)10月から11月の間だそうです(福尾猛一郎著『大内義隆』による)。晴賢が大内義隆を弑逆したのは同年の9月ですから、その直後に改名したわけです。
 ただし、この件に関しては翌々年の同22年1月の「蜷川家文書」によれば、陶晴賢から偏諱拝領の礼物が届いたことに対し、将軍足利義藤(後の義輝)がその返礼として太刀を下賜しています。つまり、同21年に義輝は晴賢に偏諱を与えていることがわかります。
 確かに@事後(改名後)の承認であること、A与えた偏諱が「義藤」の諱の一字ではなく、「晴」の字であることなど、問題点はあるものの、勝手に偏諱を名乗った訳ではないようです。
 では、勘助の諱の場合はどうでしょうか? 残念ながら陶晴賢のように将軍が偏諱を承認した記録がありません。そもそも、陪臣とはいえ従五位上の官位を有する晴賢と違い、無位無官の勘助に偏諱を承認するでしょうか。それでも信玄が「晴」の字を与えたとするならば、これは僭称になってしまいます。
 よって、この諱の件も、『甲陽軍鑑』でさえ記載していないぐらいですから、かなりマユツバものといえると思います。
参考文献:
「武田晴信と山本晴幸」『山本勘介の謎を解く』渡辺勝正
posted by 天王寺屋 at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 山本勘助 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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