石川博氏によれば、享保6年(1721)に成立した近松門左衛門の浄瑠璃『信州川中島合戦』には、武田信玄の「軍師」として山本勘助が登場することを指摘されているので、この頃が「軍師」と言う言葉の上限と思われます。
一方、『甲陽軍鑑』にも記載されている言葉で「軍配者」という言葉があります。勘助はこの軍配者であったので、軍師として見ても差支えないとする意見があります。しかしながら、軍配者は日取りや気の流れなどから合戦の吉凶を判断する人たちのことです。我々が想像するような戦術を主君に提案したり、軍勢の指揮などを主君に代わって執ったりするような人のことではありません。
また、勘助を信玄の参謀であったとして殊更高い評価をあたえているケースがあります。しなしながら、勘助が参謀であるなら、軍議に参加する諸将(御譜代家老衆など)は全て参謀ということになってしまいます。
参考文献:
「「軍師」ではなかった」『山本勘助』平山優