「山本勘助まとめ@」で掲載した『甲陽軍鑑』末書下巻下の山本勘助のプロフィールでは「明応9年(1500)申庚生也」と記述され、没年齢を62歳としています。その一方同じ『甲陽軍鑑』巻9で天文16年(1547)に勘助が55ヵ条の法度の制定を進言した際、55歳であったと記述されています。これを逆算すると明応2年(1493)生まれとなります(渡辺勝正氏は、このことについて「山本勘介55歳は、まるで「55ヵ条」に符合させたかのように見える。(中略)『甲陽軍伝解』では、同文ながら勘介の年令のみが「四十八歳」と訂正されている」と述べておられます)。
「山本勘助まとめA」で紹介した富士宮市出生説の根拠の一つである「吉野家祖先累代略歴」では「男子を生む、明応八己未(1499)正月9日寅ノ刻なり、これを源助と名づく」としております。
また、この富士宮出生説を広めた『甲斐国志』では永禄4年、69歳戦死とありますから、明応2年(1493)出生ということになります。
以下、勘助の出生年ついては、賀茂出生説では、出典により相違、近江説及び讃岐説では触れていません。
このように、山本勘助は生誕地だけではなく、生年についてもまちまちなのです。

