これで最後にしようと思いますが、洛中洛外図関係の
書籍の4冊目
瀬田勝哉『洛中洛外の群像 失われた中世
京都へ』平凡社
です(これも絶版です)。
〈景観年代について〉
黒田氏は洛中洛外図の景観年代についてほぼ全面的に瀬田氏の意見に賛成しているようなので、黒田氏の著書を読んだ際にいずれは本書を読んで見なければ、と思っておりました。
黒田氏の著書では概略しか記されておりませんでしたので、どうしても消化不良だった、今谷氏の景観年代に対する批判が、この著書を読んで初めてかなり
説得力を持つことが分かりました。
特に、松永氏と左義長の関係については軽々に批判することはできないものです(ちなみにこの本の表紙もこの松永邸門前の左義長です)。
この左義長用の竹は、従前山科家が管理していた山科大宅郷から禁裏へ献上されていました。しかしながら、天文18年(1549)10月に松永甚介の知行とされてしまうのです。そして、その後永禄8年(1565)に山科言継が大宅郷の返付を禁裏に松永氏に対して働きかけていますから、少なくともこのころまでは、松永氏関係者に大宅郷は知行されていたのでしょう。
そしてこの間の状況が端的に表わされているのが、上杉本に描かれている松永邸前の左義長の場面であると著者は述べています。
さらに、三好邸の冠木門の件(著者はこの冠木門は永禄4年三月将軍義輝御成の際に
新築されたものであるとしている)と考え合わせれば、今谷説の矛盾点として非常に説得力を持つものと言えると思います。
なお、先の左義長の件について、今谷氏は直接の反論はしておらず、単に天文16年(1547)の時点で松永弾正が京都に邸宅を持っていてもおかしくはないと主張しているだけです。
〈闘鶏を見物する少年について〉
さて、この著書でもう一つ気になった点があります。それは、武衛邸前で闘鶏を見物する少年についてです。著者は武衛邸が永禄年間に将軍邸であり、また毛氈鞍覆をつけた馬が控えていることから、この少年を義輝としています。
しかしながら、著者も記しているように
町田本洛中洛外図にもこの闘鶏の場面は描かれており、上杉本の製作意図を反映したものというより、武衛邸と闘鶏との特殊な関係とらえた方が素直なように思えます。
また、著者が指摘するように義輝の意図に沿ってこの屏風が制作されたのであれば、やはり自身を少年に描いたこと、自身の政庁である武衛邸が、父親の今出川御所に見劣りすることなどは、著者の説明をもってしてもまだ十分納得できるものではないような気がします。
さらに、もしこれを義輝とするならば、今谷氏が主張する景観年代である天文16年時点で義輝は12歳(数え年)ですから、ちょうど年代的に整合します。よって、むしろ今谷氏の説を補強することになるのではないでしょうか?
以上、洛中洛外図関係の書籍を4冊読んできて感じたのは、永禄年間に描かれていたにしては天文年間の景観が多すぎる(@永禄年間には消滅していたと思われる今出川御所が描かれている、A歓喜光寺は天文21年に高辻烏丸に移転しているのに旧地で描かれている、B飛鳥井家も天文23年に転法輪三条家の屋敷を買収して転居している筈なのに旧地で描かれている)こと、著者や黒田氏が主張するような足利義輝の意向が働いているとするのは深読みであること、特に義輝の政治的理想像のようなイデオロギーを表現したようには思えないということです。
結局、私としては今谷氏の説に強く引かれていますが、その一方、今谷氏の説明では景観年代に矛盾しているとされてしまう点があるのは事実です。よって、今谷氏の説が成り立つためには、他の洛中洛外図の景観年代もある時期に収斂することを論証し、この時代の洛中洛外図の景観は「写実」が基調であると論証する必要があるのではないかと思います。