2007年12月03日

『松永久秀の真実』藤岡周三

 今回紹介する本は、
   藤岡周三『松永久秀の真実』文芸社
です。
 本書のテーマは、松永久秀=「悪人」のイメージを払拭し、さらに織田信長=「新時代」の魁としての人物像を提出することです。
 現行では小説を除けば、松永久秀の単行本は本書しかなく、また叙述も平易なので、松永久秀の概説としては良いのかもしれません。
 しかしながら、著者も「古文書に目が届きかねているところが少なくない」と述懐しておりますが、一次史料を利用した新知見などはなく、その意味ではもの足りない人も多いのではないでしょうか。
 さらに、内容のほぼ半分は久秀以外の事に費やされ、久秀の叙述が一段落した後に、細川氏、三好氏、足利幕府などの通史がそれぞれ叙述されるので、時間的な流れが行きつ戻りつします。
 私にはこれが非常に煩瑣で読みづらかったです。これでしたら、畿内政治史として一通り時系列順に叙述し、その後、久秀の事蹟についてはトピックス的にまとめた方がずっと読みやすかったような気がします。
 また、この時代は、足利氏、細川氏などが一族内で合い争う複雑な人間関係を理解しなければならないのですから、初心者向けの本であるならば、人間関係の関係図くらいはいれないと不親切であるように思えます。
タグ:松永久秀
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2007年12月04日

『京都・一五四七年 上杉本洛中洛外図の謎を解く』今谷明

 つい先日まで、京都で「狩野永徳展」が開催されていたこともあり、気になって読んでみました。
   今谷明『京都・一五四七 上杉本洛中洛外図の謎を解く』平凡社
です。
 従来、上杉本洛中洛外図屏風に描かれた京都の景観について、「理想像・あるべき姿」を描いた空想的都市景観であるとされたり、「伝狩野永徳筆」に引きずられてか、「永禄年間の京都の景観」とされてきました。
 本書では、これらの通説を一蹴し、この屏風に描かれた景観は天文16年(1547)の5月から閏7月のわずか3ヶ月ばかりの間に絞られることを論証しております。
 その論証の方法は、武家屋敷、寺社、公家の邸宅の一軒一軒について、古文書、古記録などから、その建物が現存した年代の上限・下限を調べてゆくというものです。この方法で調査できる全ての建築物に対し上限・下限を調査した結果、上記3ヶ月の間に収まってしまったということです。まさに偏執狂的な作業という他ありません!
 これだけ徹底的に調査・考察したものに対し異論を挟むのは不可能ではないかと思うのですが、どうもそういうわけではないようです。…というわけで次回は、黒田日出男著『謎解き洛中洛外図』です。
 ところで、近刊の『芸術新潮2007年11月号(「ミスター桃山 天下の狩野永徳!」)』においても、本書の内容はほとんど紹介されておりません(逆に、この『芸術新潮』では前述の黒田氏の説が“ほとんど定説になっている”と紹介されていました)。
 本書の旧版の発刊時にはかなりセンセーショナルでかなり話題になったようですが、今では“過去の遺物”の様に扱われてしまっているのが残念でなりません。私的には今なお十分説得力をもった説に思えるのですがいかがなものでしょうか?

付記)
 本書の本文では、景観年代だけではなく、本屏風の製作者についても言及し、狩野永徳筆を否定しています。しかしながら、この新版の出版に伴い、あとがきで「製作者が『絶対に永徳ではない』とこだわるつもりはなくなっている」とトーンを弱めています。
 
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2007年12月16日

『謎解き洛中洛外図』黒田日出男@

 今回は前回予告した、
   黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書
です。絶版の書籍をご紹介するのはどうかと思いましたが、古本として入手し易いですし、何より、前回紹介した今谷氏の説をはじめ今までの「上杉本洛中洛外図」の研究史を平易にまとめ、かつ批判をおこなっているので、併読するとさらに興味深いものになると思いましたので、紹介することにしました。
 さて、この本の要旨は、「上杉本洛中洛外図は、将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために、永禄7年(1564)年末か同8年初めに、若き狩野源四郎(永徳)に命じて制作させていたものである」というものです。
 制作指示及び贈答者が足利義輝であるということを除けば、この説の論拠は『(謙信公)御書集』に記載されていることにあるので、この史料の信頼性如何がこの説のキモになるのでしょう(残念ながら、この『(謙信公)御書集』についての史料批判は十分なされていないように私には思えます)。
 一方、制作指示及び贈答者が足利義輝であるという点については、史料上明確に記載されているものではなく、あくまでも状況証拠に基づく推論ですから、反論の余地は多分にあると思います。
 さらに、著者は左隻の中央よりやや下に描かれている「輿に乗る貴人」を上杉謙信に比定していますが、これもどうなのでしょうか? 細川(管領)邸の方向より公方邸に来たるこの行列はやはり管領一行とした方が自然のような気がします。著者はこの行列の従者の髪形より管領一行ではありえないが、管領クラスの人物ということで、謙信に比定しています(もちろん本屏風が上杉家に伝来したことも理由の一つでしょう)。しかしながら、明らかに管領邸の方向から進んで来ているのですから、私には従者の髪形だけを根拠に管領ではないとするのは根拠が弱いような気がします(著者は本屏風に「写実性」を求めることを否定しています。その論法で言えば、髪形の多少の誤りは許容すべきものなのではないでしょうか?)
 ところで、私が気になったのは、本屏風の景観年代についてです。ただ、これを書くと長くなりそうなので、次回書く事にいたします。
posted by 天王寺屋 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 洛中洛外図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月17日

『謎解き洛中洛外図』黒田日出男A

 さて、今回は『謎解き洛中洛外図』の2回目、上杉本洛中洛外図屏風の景観年代についてです。
 景観年代について著者は、この屏風は写実を意図したものではないので、ある特定の時期には限定されない、と述べる一方、その景観は天文末年から永禄4年(1561)に収斂しているとしています。
 これは、今谷氏の天文16年(1547)景観説では年代的に矛盾してしまう景観(@三好筑前邸に描かれている冠木門(かぶきもん)、A松永久秀と左義長(さぎちょう)の関係、B妙顕寺の改称時期、C頂妙寺の再建時期)があることから、その矛盾の無いように時間的幅を持たせた結果、天文末年から永禄4年の景観という結論が導き出されたわけです(なお、これらの点について今谷氏は反証していますが、同意は得られていないようです)。
 さらに、この景観に時間的な幅がある原因として、著者は瀬田勝哉氏の論を引き、「上杉本の政治的枠組みとして、天文18年6月以降消滅する武家の体制があったことは認められるとしても、その体制を壊して実権を握った三好・松永という新興勢力も重ね合わせるように描かれており、それらを一段上から包摂する秩序が描かれている」ため、としています。要するに旧勢力と新勢力を包括する存在として将軍義輝を想定し、その政治的理想像(著者がこの言葉を使っている訳ではありませんが、要はそういうことだと思います)を描くことに本屏風の製作意図があったとしています。
 ところで、この「天文末年から永禄4年の景観」という指摘ですが、この天文末年を仮に天文18年としますと(この年に本屏風に邸が描かれている高畠勘九郎が戦死しています)、この年は狩野永徳が7歳(数え年)の時ということになります。
 そして著者は「そのリアリティある力強い表現からすれば、粉本のようなものに依拠したとは考えがたい(もちろん、東博模本などがあるのだから、粉本を何ほどかは利用したであろうが)」と述べているので、留保付きながら、基本的には粉本などの利用を否定しております。
 さて、著者の指摘ではこの屏風は永禄7年末か翌年に永徳により描かれたとしていますから、永徳は(すくなくともその一部は)7歳の時の記憶を元に、その15年後に“リアリティ”ある絵を描いたことになります。こんなことが可能だったのでしょうか?
 以上、私のつたない読解能力ですので、誤解している部分も多々あるかと思います。しかしながら、今谷説が全く捨て去られ、黒田説が“定説”とされる程説得力をもったものとは思えないのですが、いかがなものでしょうか?
posted by 天王寺屋 at 01:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 洛中洛外図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月18日

『洛中洛外 環境文化の中世史』高橋康夫

 ここまでくると“毒を食らわば皿まで”では無いですけれども、どうしてももう少し調べて見たくなってしまいました。また絶版の書籍で申し訳ありませんが、今回は
  高橋康夫『洛中洛外 環境文化の中世史』平凡社
です。
 この本を読みますと、先述した今谷氏や黒田氏が“何を書かなかったのか”が良くわかりました。それは当人たちは単に煩雑さを避けるため、叙述しなかったのかもしれませんが、重要な視点だと思います。
 以下特に気になった点について書いてみます。
1)洛中洛外図の構図
 この本(正確にはこの本の「第四部 史料としての洛中洛外図屏風」)の中心主題は他の初期洛中洛外屏風との比較という視点なのですが、黒田氏の説のとの関りで最も重要だと思われるのは、これらの屏風の構図の取り方についてです。
 洛中洛外図の各本を見ると奥行方向の線が左上がりとなるもの(順勝手)と、右上がりになるもの(逆勝手)になるものが存在します。そして、この順勝手の場合、南面する建物(公武邸宅や寺院境内では南面することが多いと指摘しています)を、上京隻では正面から描くことができますが、下京隻では裏側を描かざるを得ないということになります。
 実際、町田本洛中洛外図屏風では上京隻にある将軍邸や細川邸を正面から描いているのに対し、下京隻にある内裏は裏側を描くことになってしまっています。
 これについて、著者は「等角図法の奥行線を左右どちらにとるかといった技術的問題ではなく、主題自体の選択、制作の意図を反映している」と指摘しています。よって、「下京隻に位置する内裏よりも、上京隻の将軍御所や細川邸などを意識したものといえよう」と結論づけているのです。
 では、問題の上杉本はどうなのでしょうか? 上杉本は町田本とは逆に逆勝手になっており、明らかに武家住宅が集中する上京隻より、内裏が描かれている下京隻に重点が置かれていることが分かります。
 さらに、黒田氏の著書でも説明されていましたが、上杉本は他の洛中洛外図に比べて内裏の建築物への書き込みが多く、この点でも内裏中心に描かれていると言えるのではないでしょうか?
 黒田氏の説では旧勢力(細川京兆体制)と新勢力(三好体制)を包括する存在として将軍義輝がおり、その政治的理想像を描くことに本屏風の製作意図があったというのがその趣旨だと思いますが、上述したように上杉本の重心は武家邸宅(体制)にはなく、どちらかと言えば内裏中心の構成になっております。よって、黒田氏の主張する製作意図は成立しにくいのではないのでしょうか?
2)上杉本の「写実性」
 今谷氏は再三に渡って上杉屏風の写実性・記録性を述べておられます。しかしながら、例えば金閣は第二層にも花頭窓を描き、初層を土壁とするなど(著者は他にも北野天満宮本殿の正面に千鳥破風を描かないこと、同社忌明塔の外観なども指摘しています)、洛中の有数名所である金閣でさえ誤りがあるのですから、上杉本の写実性を過剰に信頼することはできないと思います(なお、今谷氏は現存の建造物と画中の建造物の比較を行っており、「屏風画面においては現物に忠実に写されていることがわかる」と結論づけています。しかしながら、昭和25年(1950)に焼失してしまった金閣は言及されていません)。
 以上、長くなりましたがこの本で気になった点を2点ばかり挙げてみました。
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2007年12月19日

『洛中洛外の群像 失われた中世京都へ』瀬田勝哉

 これで最後にしようと思いますが、洛中洛外図関係の書籍の4冊目
   瀬田勝哉『洛中洛外の群像 失われた中世京都へ』平凡社
です(これも絶版です)。
〈景観年代について〉
 黒田氏は洛中洛外図の景観年代についてほぼ全面的に瀬田氏の意見に賛成しているようなので、黒田氏の著書を読んだ際にいずれは本書を読んで見なければ、と思っておりました。
 黒田氏の著書では概略しか記されておりませんでしたので、どうしても消化不良だった、今谷氏の景観年代に対する批判が、この著書を読んで初めてかなり説得力を持つことが分かりました。
 特に、松永氏と左義長の関係については軽々に批判することはできないものです(ちなみにこの本の表紙もこの松永邸門前の左義長です)。
 この左義長用の竹は、従前山科家が管理していた山科大宅郷から禁裏へ献上されていました。しかしながら、天文18年(1549)10月に松永甚介の知行とされてしまうのです。そして、その後永禄8年(1565)に山科言継が大宅郷の返付を禁裏に松永氏に対して働きかけていますから、少なくともこのころまでは、松永氏関係者に大宅郷は知行されていたのでしょう。
 そしてこの間の状況が端的に表わされているのが、上杉本に描かれている松永邸前の左義長の場面であると著者は述べています。
 さらに、三好邸の冠木門の件(著者はこの冠木門は永禄4年三月将軍義輝御成の際に新築されたものであるとしている)と考え合わせれば、今谷説の矛盾点として非常に説得力を持つものと言えると思います。
 なお、先の左義長の件について、今谷氏は直接の反論はしておらず、単に天文16年(1547)の時点で松永弾正が京都に邸宅を持っていてもおかしくはないと主張しているだけです。
〈闘鶏を見物する少年について〉
 さて、この著書でもう一つ気になった点があります。それは、武衛邸前で闘鶏を見物する少年についてです。著者は武衛邸が永禄年間に将軍邸であり、また毛氈鞍覆をつけた馬が控えていることから、この少年を義輝としています。
 しかしながら、著者も記しているように町田本洛中洛外図にもこの闘鶏の場面は描かれており、上杉本の製作意図を反映したものというより、武衛邸と闘鶏との特殊な関係とらえた方が素直なように思えます。
 また、著者が指摘するように義輝の意図に沿ってこの屏風が制作されたのであれば、やはり自身を少年に描いたこと、自身の政庁である武衛邸が、父親の今出川御所に見劣りすることなどは、著者の説明をもってしてもまだ十分納得できるものではないような気がします。
 さらに、もしこれを義輝とするならば、今谷氏が主張する景観年代である天文16年時点で義輝は12歳(数え年)ですから、ちょうど年代的に整合します。よって、むしろ今谷氏の説を補強することになるのではないでしょうか?

 以上、洛中洛外図関係の書籍を4冊読んできて感じたのは、永禄年間に描かれていたにしては天文年間の景観が多すぎる(@永禄年間には消滅していたと思われる今出川御所が描かれている、A歓喜光寺は天文21年に高辻烏丸に移転しているのに旧地で描かれている、B飛鳥井家も天文23年に転法輪三条家の屋敷を買収して転居している筈なのに旧地で描かれている)こと、著者や黒田氏が主張するような足利義輝の意向が働いているとするのは深読みであること、特に義輝の政治的理想像のようなイデオロギーを表現したようには思えないということです。
 結局、私としては今谷氏の説に強く引かれていますが、その一方、今谷氏の説明では景観年代に矛盾しているとされてしまう点があるのは事実です。よって、今谷氏の説が成り立つためには、他の洛中洛外図の景観年代もある時期に収斂することを論証し、この時代の洛中洛外図の景観は「写実」が基調であると論証する必要があるのではないかと思います。
posted by 天王寺屋 at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 洛中洛外図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする