2007年09月02日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫@

 昨年から今年にかけて出版された山本勘助(武田)関連本の中で、私が最も勉強になったのはこの本です。
   鴨川達夫著『武田信玄と勝頼』岩波新書
 この本の内容は前半が古文書の読み方、後半が著者独自の信玄・勝頼像の提示になっております。
 特に興味深かったのは、前半の古文書の読み方です。古文書の読み方の解説本には良書がいくつも出ていますが、戦国時代にしぼったものはあまりありません。
 この本では、あくまで武田氏の例のみを挙げておりますが、それでも文書の読み方はもとより、文書の種別、偽文書の見分け方、年代比定の仕方などを平易に語っているため、まさに戦国時代の古文書入門といった感があります。
 物語として戦国史を卒業し、この時代を真剣に勉強したいと思われている方には本当にお勧めします。
 とはいえ、評価すればするほど、あら捜しをしてみたくなるもので、いくつかの点について本当かどうか調べてみましたので、次回以降で少しその点を述べさせて頂きたいと思います。
 
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2007年09月03日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫A

 さて前回の続き『武田信玄と勝頼』です。
 まず調べたのは、著者が文書は手紙系(書状)のものと書類系(証文、これは著者独自の言葉)のものに大別できるということについてです。
 著者の指摘によれば、書状は、多くの場合先方への挨拶で始まり、用件を記したのち、「恐々謹言」という文言で結ばれ、月日のみを記して年紀(年号)は付けないということです。さらに紙の形態(料紙)は相手が家臣または近隣の大名である場合は竪切紙(通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名である場合は切紙(同じく横に半分に切ったもの)が、それぞれ多く見られるとしています。
 また証文については、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書であり、必要な事柄を事務的に記した上で、原則として「仍って件の如し(仍如件)」という文言で結ばれる(相手によっては書状と同じ「恐々謹言」を用いる場合もある)としています。また、書状系と違い、年紀が必ず記入され、料紙は永禄九年(一五六六)の夏ごろを境として、折紙が主流であったのを、原則として竪紙(紙の全面を用いる)で作るように改めたということです。
 さて、私の古文書のイメージといえば、様式の類型化はある程度まではできるものの、例外もかなり多くなるのではないかと思っておりました。
 そこで、元亀元年から信玄が死ぬまでの文書及び無年号文書の一部(具体的には『戦国遺文 武田氏編』第三巻の1489号文書から2121号文書)の中で、@武田家及び当主である信玄の発給した文書(つまり家臣の発給した文書を除いたもの)であり、A正文(写と偽文書の可能性を指摘されているものを除いたもの))であるものを調べ、著者の言うように書状と証文の区別が明確にきるかどうかやってみました。
 その結果、豈にはからんや、著者の区分からはずれるようなイレギュラーな文書は以外に少なかったのです(イレギュラー文書の一覧は次回掲載します)。
 詳細を言うと、全文書311件中、31件(10%)がイレギュラーな文書でした。さらに、著者は料紙について、書状は、竪切紙、切紙が多いとし、証文については“原則として”竪紙に改めたと、含みを持たせていますので、これを除くとイレギュラーな文書は20件(6.4%)となります。
 そして、著者の区分に、「条目」は内容的には証文であるが年紀がない(4件)の条件を加えると更に確度が高まります。この条件を加えるとイレギュラーな文書は16件(5.1%)にしかなりません。
 このイレギュラーな文書の中には、右筆(書記者)等が書き落とした単なるミスの可能性もありますし、また、偽文書である可能性もあります(実際にかなり怪しいものもあります)ので、さらに詳細を調べればイレギュラーの率はさらに少なくなると思われます。
 よって私の調査した結果、著者の指摘はかなり的を得ていると言えると思います。
posted by 天王寺屋 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 武田氏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月04日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫B

〈イレギュラー文書の一覧〉*文書番号は『戦国遺文 武田氏編』による

1520号文書 感状ですから証文ですが年紀の記載がありません。また、書き止め文言もありません。
1523号文書 知行宛行の約束で、「仍如件」と結ばれていますから証文ですが、年紀の記載がありません。
1551号文書 朝倉義景宛の書状に折紙を使っています。
1557号文書 寺領の安堵状で、年紀もありますので証文ですが、「御下知候者也」と結ばれています。
1575号文書 年紀ありの官途書出状で、証文にあたると思いますが、折紙を使っています。
1584号文書 社領の寄進状で、年紀もありますので証文ですが、「仰之状如件」と結ばれています。
1595号文書 年紀ありの願文で、証文にあたると思いますが、「仍祈願状如件」と結ばれています。
1603号文書 知行宛行状で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、「出置者也」で結ばれてしまっております。
1630号文書 年紀ありの起請文で、証文にあたると思いますが、「仍起請文如件」と結ばれています。
1687号文書 棟別改日記と呼ばれるもので、年紀があり証文にあたると思いますが、「可収納者也」で結ばれてしまっております。また、料紙は折紙です。
1705号文書 下間頼廉宛の書状に折紙を使っています。
1711号文書 重恩宛行状で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1712号文書 知行書上状で、年紀もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1713号文書 重恩宛行状で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1715号文書 知行宛行状で、年紀もありますので証文ですが、料紙は折紙です。
1729号文書 寺領の寄進状で、年紀もありますので証文ですが、「恐惶敬白」と結ばれています。
1730号文書 伝馬手形で、年紀(干支のみ)もありますので証文ですが、料紙は竪切紙です。
1733号文書 下間上野宛の書状に竪紙を使っています。
1744号文書 一色氏宛の書状に竪紙を使っています。
1863号文書 年紀ありの過所(通行手形)で、証文にあたると思いますが、「〜之状如件」と結ばれています。
1892号文書 供僧職の安堵状で、年紀もありますので証文ですが、「可相勤者也」で結ばれてしまっております。
1921号文書 条目と呼ばれるもので、証文にあたると思いますが、年紀がありません。
1925号文書 諸役免許状で証文ですが、年紀がありません。なお、書き止め文言が「仍而如件」となっています。
1928号文書 条目で、証文にあたると思いますが、年紀がありません。
1990号文書 条目で、証文にあたると思いますが、年紀がありません。
2047号文書 宛名欠の書状ですが、「以上」で結ばれています。
2075号文書 宛名欠の書状ですが、竪紙が使われています。
2077号文書 成就院宛の書状ですが、竪紙が使われています。
2085号文書 牧伊勢守宛の書状ですが、竪紙が使われています。
2091号文書 安中景繁宛の書状ですが、竪紙が使われています。
2121号文書 条目で、証文にあたると思いますが、年紀がありません。

なお、以下のものは、イレギュラー扱いとしませんでした。
@内容が箇条書きのみで書かれているもの(「条目」など)は、以上(已上)や右具在前(具在前)で結ばれていますが、これは本文がないため「仍如件」を使う必要がなかったものと判断しました。
A同様に官途書出状なども本文がないので、「仍如件」を使う必要がなかったものと判断しました。
B著者は書状の書き止め文言を「恐々謹言」しか挙げておりませんが、「恐々敬白」、「恐惶敬白」も散見されます。しかしながら、これはイレギュラーとしては扱いませんでした。
C料紙に続紙を使ってあるものは、単に文章が長くなったためこのような用紙になったとだけだと思われますので、これもイレギュラーとしてはおりません。
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2007年09月05日

『武田信玄と勝頼』鴨川達夫C

 さて、『武田信玄と勝頼』の4回目です。 
 今回はに武田氏の印判である龍を刻んだいわゆる「龍朱印」と当主の諱を刻んだ「晴信」の朱印についてです。
 この点について著者は、龍朱印は、上位の印判であり、戦場のように、破損や紛失の恐れのある場所には、持って行かなかったとして、戦場に近い場所では、龍の朱印を捺すことができず、代わりに下位の印判である「晴信」の朱印を捺印したと述べております。
 これに対して、片桐昭彦氏は「戦国期武田氏の文書発給システムと権力」(『歴史学研究』736号)において、「武田家では当主が在陣中には家印である龍・獅子両印判を携帯していたのである」と述べております。
 はたして、どちらが正解なのでしょうか? 
 片桐昭彦氏は、@天正7年(1579)8月末から12月初頃まで勝頼は駿河国江尻に在陣したと思われるが、その間に、武田家が発給した奉書式印判状が八通(龍朱印七通、獅子朱印一通)存在すること、A永禄四年(1561)長窪大門□中宛、龍朱印状において、文中に「陣下へ可注進者也」とあることから、信玄が在陣中に龍朱印状が発給されたとしており、竜朱印が常に当主と伴にあったことの根拠としております。
 また、著者の根拠としては、「晴信」朱印を押した感状が合戦の当日に発給され、一方竜朱印を押した感状は合戦から日をおいて発給されたことを根拠としています。
 いずれも相応の根拠があることから、「龍朱印が全く持ち出せなかった」とか「常に当主と共にあった」とは一概に言えないと思われます。
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2007年09月07日

『刀狩り』藤木久志

 さて今回はガラリと変って、
  藤木久志著『刀狩り』岩波新書
です。
 誰もが知っている歴史用語でありながら、それまで全く研究がなされていなかった「刀狩り」について、その意義を一新させた画期的な著作です。歴史学における基本的文献の一つと言って良く、既に多くの方が論評しておりますので、いまさら内容を紹介することも無いと思いますが、一応簡単に。
 従来、「刀狩り」は農民の武装解除令と捉えられてきましたが、実は武器の“所持”に関しては肝要で、ただ“帯刀する武士”身分と“それ以外”の身分を区別した身分統制令であったのです。そして、日本では、秀吉の「刀狩り令」、明治の「廃刀令」、戦後のGHQによる民衆の武装解除政策と三段階の「刀狩り」があり、この三段階目に至って初めて日本の民衆の武装解除はなされたとしています(それでも現在230万本の刀剣が全国にあるそうです)。
 ところで、そもそもなぜ私が突然このような本を読んだかというと、以前、海上知明著『信玄の戦争』について書いた時、兵農分離について後日調べて見たいと書きました。その一環として本書を読んだ訳です。
 つまり、「刀狩り令」が、身分統制令または武装解除令のいずれであったとしても、農民と武士を区別するものであったことは間違いありません。
 とすれば、「刀狩り令」の厳格な運用は、兵農分離の要件の一つといって良い訳です。もし、この「刀狩り令」が織田政権の領土で広範かつ厳格な運用が認められるのであれば、信長の軍隊は兵農分離していた可能性をみることができます。
 ところが著者の調査によれば、織田政権では、越前での「刀狩り」の微証があるものの、他の地域では確認できておりません。他地域で全く見られないということは、越前の例は特殊事例(おそらく反乱防止の為、やむを得ずとった臨時の処置)ということができ、織田政権の恒常的な施策としては「刀狩り」は行なわれなかったと言う事です。
 結局、通説通り「刀狩り令」の徹底は秀吉によってなされたのであり、兵農分離は秀吉からということを裏付ける根拠の一つになるでしょう。
 ところで、「刀狩り」だけでなく、武士の城下町への集住(武士と耕地の切り離し)や、「検地」による耕作者(農民)と武士の明確な区別など、兵農分離の要件は他にもありますので、これらの点についてはまた後日調べて見たいと思います。
 
posted by 天王寺屋 at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 織豊政権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月14日

『中世のなかに生まれた近世』山室恭子

 1991年の出版であり、既に高い評価を得ているので、いまさら御紹介するのもためらわれますが、今回は、
   山室恭子著『中世のなかに生まれた近世』吉川弘文館
です。
 先日、鴨川達夫著『武田信玄と勝頼』についてご紹介した際に、武田氏の(発給)文書について言及しました。本書はその発給文書についての本です。
 『武田信玄と勝頼』においては、発給文書を書状系と証文系に別けておりましたが、本書では、判物(花押(サイン)が書いてある文書)と印判状(印章が押されている文書)に別けております。
 そして、歴史的には判物(厚礼な書式)から印判状(薄礼の書式)へ徐々にシフトしていったのです。
 本書では、この判物から印判状への流れを、日本各地の戦国大名、そして三人の天下人について分析しておりますが、圧巻は何といっても織田信長です。
 他の戦国大名においては、判物から印判状への変更は非常に緩やかでした。これは、この変更が相手に対する礼儀の軽重に関わるため、緩やかな変更にならざるを得なかったわけです。
 つまり、当主が自ら花押(サイン)を書いたもの(判物)と、ただ印鑑(印章)を押したもの(印判状)では、当然花押を書いた文書の方が丁寧なわけです。そして相手(家臣)と主君の地位が大きく開いていなければ、印判状を与えるような尊大な態度はとる事ができなかったのです。そこで、通常は、当主の地位が時間をかけて向上するのに合せて、発給文書の印判状化が徐々に進んでいきました。
 ところが、信長の場合は違います。非常に短期間、かつ徹底的にこれを断行してしまいます。これをどう見るか、色々な見方ができるかと思いますが、やはり私は、信長の権力の強さ(家臣に対する隔絶した力)を見てしまいます。
 いずれにせよ、信長と他の大名との違いよりも類似性が指摘(例えば、楽市楽座政策にしても、楽市令は信長以前仁六角氏が近江石寺に発していますし、楽座令も、他方では既存の座特権のほとんどが追認・保護されております)されることが多い中で、これほど信長と他の大名の違いが明確であるものは少ないのではないでしょうか?
 本書の内容は以上のようになりますが、石高やそれに基づく兵の動員数などを別とすれば、戦国大名の特徴を初めて数値的に明らかにした著作と言えます。その意味で本書は、画期的な歴史書であると言えると思います。
posted by 天王寺屋 at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

『戦国期印章・印判状の研究』有光有學編

 先日御紹介しました山室恭子著『中世のなかに生まれた近世』は確かに名著ですが、出版が1991年であり、その10年以上たってしまっております。よってその後の研究状況がどうなったのか、知りたくなってしまいます。
 そこでその飢えを癒してくれるのが、本書でしょう。
   有光有學編『戦国期印章・印判状の研究』岩田書院
 この本は、それぞれ著者の違う論文集であるので、統一感はありませんが、それでもほぼ地域的には全国をほぼ網羅し、時代も鎌倉時代から江戸時代まで言及されているので、このテーマにおける現時点での総括といえる内容となっています。
 さて、前述の『中世のなかに生まれた近世』との比較で言えば、有光有學氏が「今川氏の印章・印判状」の中で、次のように批判しています。
 @今川氏の発給文書は、『中世のなかに生まれた近世』で調査された文書が800点余りであるのに対し、現在は1200点余りが知られており、数的には5割方増えている。この相違は数だけに止まらず、質的にも変化しており、前者では寺社宛の比率が高かったが、家臣宛の文書の比率が高くなってきている。
 A山中氏が統計的手法により可能な限り全体像を把握しようとしたのに対し、やはり文書一つ一つを分析する必要がある。
 B山中氏が、文書の内容を分類しているが、その分類の仕方は再検討する必要がある。
 A、Bについては見解が分かれるところだと思いますが、Bの再検討の必要性についてはその通りだと思います。
 さて、その他の論文について、いくつか述べますと、まず、平山優氏が「戦国大名武田氏の印章・印判状」で武田氏の発給文書について概説しております。『武田信玄と勝頼』で触れました竜朱印や晴信朱印などについても初見、使用状況などが解説されており、同書で興味を持った方は併読をお勧めします。
 また、『中世のなかに生まれた近世』で全く触れられていなかった四国の状況を、川岡勉氏が「四国における印章・印判状」で説明しています。
 以上、値段が高め(8900円(税別))ですが、発行600部だそうで、興味のある方は早期の購入をお勧めします。
タグ:戦国時代
posted by 天王寺屋 at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする