渡辺勝正著『山本勘介の謎を解く』大正出版
です。
最初は、キワモノのように思えて買う気はなかったのですが、読んでみたら意外に面白かったです。とはいっても、著者の説が全く正しいというわけではありません。
内容としては、「山本勘助讃岐出生説」というべきものです。この根拠は、二つの材料の組み合わせよってなりたっています。一つ目は山口県に伝わる伝承で「四国の讃岐に生まれ、山口に来て大内義隆に仕えた」(「大内伝承」と言っている)というものです。もう一つは『萩藩閥閲録遺漏』に採録された「山本家言伝之覚」に「元甲州武田ノ臣山本勘介之後胤と云、已後郷士と成、代隔元就公御代御当家え附属し」とあることから、山本勘介は讃岐に生まれ、武田家に仕官する前に大内氏に仕えていたのは間違いないとしています。
さて、この本で一番おもしろかったのは、現在山本勘介の生誕地として最も有名な「駿河山本誕生地説」について、その根拠となっている「吉野家祖先累代略歴」などに対して、歴史的事実と照らし合わせると矛盾が多いと実例を挙げて指摘していることです。類書では、これら生誕地は紹介される事はあっても、批判しているものはなかったので新鮮でした。
ところがこの「駿河山本誕生地説」などについては厳密に史料批判を行い手厳しく批判しているのですが、自説である「讃岐出生説」については、史料批判なしに史料を盲信しており、甘さが目立ちます。
直接の根拠としている「大内伝承」はあくまで伝承に過ぎません。また「山本家言伝之覚」については比較史料がないため直接批判するのが困難ですが、同じ『萩藩閥閲録遺漏』に採録された文書で、本書でも採り上げられている2件の文書は偽文書です。
具体的には@「(永禄4年)9月8日付、山県三郎兵衛宛信玄書状」(これには「山本勘介」の名も出ています)、A「(永禄4年)9月13日付、山県三郎兵へ宛信玄(晴信)書状」の2件ですが、偽文書である理由は作家の桐野作人氏が自身のブログで指摘おります。この理由とは@Aとも永禄四年当時の文書ならば、昌景は飯富姓でなければならないのに、山県姓になっていること、さらに@は「恐々かしく」という書き止め文言がおかしく(武田氏の文書では類例がないと思います)、Aは「(上杉)輝虎」と記載されていますが、これも政虎でなければおかしいのです。だいたい@は『閥閲録』自体に「此御書不審」と記載されておりました。
というように、この本では少し調べれば矛盾点に気付くような史料も批判なしに自説の根拠となっております。筆者は『萩藩閥閲録遺漏』について「萩藩の公儀で認定されたこの覚書は、民間に私蔵されている文書類とはわけが違う」と盲信しております。ですから、「山本家言伝之覚」に記載されていることは正しく、また自説も正しいのだという論理になってしまっております。
しかしながら、前述の信玄書状のように『萩藩閥閲録遺漏』であっても偽文書が含まれており、盲信するわけにはいきません。
よって、この「山本勘助讃岐出生説」についても、他の伝承地以上の真実を含んでいるとは言えないと思います。
余談ですが、この筆者は「勘助」ではなく、「勘介」と表記することにこだわっております。根拠としては「山本勘介の原典は何といっても『甲陽軍鑑』である。この書では二五八ヵ所に「勘介」という字を使い、「勘助」の字は三ヶ所だけである。また『萩藩閥閲録遺漏』に収録された勘介子孫の由緒書には、「勘介」が二つ、「勘助」が一つ書かれている。また『遺漏』の川中島合戦直前に「信玄」が山県三郎に出した書状は「勘介」となっている。吉田松陰が授かった「山本勘介道鬼流」の免許状は「勘介」である」ということらしいのですが、私の所有している『甲陽軍鑑大成』で調べますと(『甲陽軍鑑』一部(二巻と三巻)で調べました)、「勘介」9件、「勘助」9件と同数であり、差異はみられませんでした。とすれば、これは版本(手写本)による違いに過ぎず、各版本(書写本)の校合を厳密に行なわなければ、「勘介」を正しいとする根拠にはなりえないと思います。

